馬の進化と人間との関わり (9)


● 日本馬は4、5世紀に持ち込まれた

 最後に、日本における馬と人との交渉の変遷について概観する。前述したように中新世の地層や沖積層の地層から馬の化石骨の出土はあるが、明らかに縄文、弥生時代の馬と推定できる馬骨の出土は一例も無く、この頃日本列島に馬は棲息していなかったと考えられる。現在の在来馬にいたる日本の馬は、4世紀末から5世紀頃に乗馬の技術や飼養技術とともに持ち込まれた家畜馬が起源と考えられている。
 その導入ルートについて、これまで定説とされていたのは、長谷部言人と林田重幸による説である。彼らは、古代馬には小型、中型の2型があり、小型馬が中国の四川、雲南、華南地方から沖縄、奄美を経由して九州に入り、中型馬がモンゴルから朝鮮半島を経由して日本に入ったと考えていた。そしてこれらの両型は、鎌倉時代には中型馬が多数を占めるようになったが、南西諸島には小型馬がそのまま残ったと考えた。
 しかし現在では、野沢謙により提唱されている説がより現実的であるとされている。彼は現存する東アジア在来馬の血液蛋白を指標とした遺伝学的解析をおこなった結果、日本の在来馬は古墳時代に蒙古系馬がモンゴルから朝鮮半島を経由して、九州に家畜馬として導入されたものが起源であるとしている。在来馬には中型に分類される体高132センチ前後の北海道和種木曽馬対州馬御崎馬と、小型に分類される体高108-122センチの与那国馬トカラ馬宮古馬野間馬があるが、この体高の違いは飼育環境条件と人為淘汰作用によってもたらされたものとする。実際、血液蛋白の解析では、すべての日本在来馬及び東アジアの在来馬は、蒙古馬ときわめて近いことが認められている。
 日本列島に持ち込まれた馬は、ほどなくしてもっぱら戦闘における兵器として用いられていったものと考えられる。ただし、兵器として使用されてそれが成功を収めたのは、平安時代の中後期から鎌倉時代の初頭までであり、とくに織田信長が、3列横隊による一斉射撃の新戦術を駆使して武田勝頼自慢の騎兵部隊を崩壊させて以後、騎馬による実戦はわが国からほとんど姿を消した。  講談などでお馴染みの馬術の名人たちは、ただ形式美のみに走り、また枝葉末節の特殊な技を誇るだけにおわった。町人の騎馬は禁じられ、またスポーツとしての乗馬もついに発達しなかった。馬を牽引用家畜とする習慣がまったく存在せず、しかも農耕にもほとんど使われず、ごく一部地域において駄載馬として使役された程度であった。
 平安時代末期に赫々たる武勲をたてたという木曾馬や、南部地方特産の馬についても交配は自然にまかされ、能力検定、血統登録書の作成に基づく選択交配による育種技術は発達しなかった。16世紀以降のヨーロッパにみられたような、各用途別の品種はついに明治維新を迎えるまで誕生しなかった。
なお、これと関連するのは蹄鉄の使用である。蹄鉄が発明されたのは紀元前2世紀頃のことといわれているが、その頃ゲルマン人はすでに釘を打った蹄鉄を使用しており、一方ローマでは金属製のサンダルを馬に履かせていたとする説がかつて有力であった。しかし、それを否定する議論も多く、はっきりしたことはよく判らない。
 いずれにしても、装蹄の技術はなぜか東方へ向かっては普及せず、ジンギスカンの蒙古馬はすべて蹄鉄なしの跣蹄であり、そのため、各人数頭ずつの替え馬を連れて遠征の途についた。日本にも装蹄の技術はなく、軍用馬や駄載馬にはわらじを履かせて蹄を損傷から守っていた。もっとも徳川吉宗の時代にオランダ人によって装蹄の技術が披露されたが、定着はしなかった。
 明治時代から第2次世界大戦までの期間、スポーツとしての乗馬はそれ以前同様、ほとんど関心を持たれず、馬はただ馬車馬として一般大衆のあいだに広く浸透し、また日中戦争中、中国大陸において、騎兵、武器運搬、牽引用として馬がもっとも利用されたのであった。
 第2次大戦後、自動車の普及により馬車馬はたちまち全国からその姿を消した。スポーツとしての乗馬が普及して来たとはいえ、その範囲は欧米諸国とは比較にはならない。

(日本中央競馬会「新・競馬百科」2004年9月16日発行より)